はじめに
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
(ルカの福音書 9章23節)
本書の目的
本書はフィクションではない。確固たる事実に基づいた物語である。
この書物の著者、田中寛郷は筆名ではなく、本名である。
こんな但し書をつける理由は、良識ある社会人ならば、このような著書を実名で出版するような愚行を犯すことは、決してあり得ないと思われるからだ。
私の逆説を、いまは理解できない読者も、本書を読み進むうち、何かしら有益な直観へと誘われることを願っている。
本書は、無神論者として55年間の人生を歩み続けた結果、破滅の淵へと追い詰められ、そこから身を投げようとした瞬間、主イエス・キリストが伸べられた御手に抱きとめられた男の物語である。
むろん、この男とは、私自身、田中寛郷を指す。
私は55歳で洗礼を受け、56歳で伝道師に任命された。
主イエス・キリストの召しを受け、殉教を志す者とされたのである。
この救いの御業にあって、主イエスは、敬虔なクリスチャンである年若く聖い女性を、私のもとに遣わされた。彼女によって、私は教会へと導かれ、やがて彼女と結婚することになった。
本書は、主イエス・キリストに捧げられた賛美であると同時に、妻幸音へのオマージュでもある。
一般的な見方をするなら、本書はいわゆる「自伝」のジャンルに分類されるであろう。
しかし、クリスチャンがこの序文を読むなら、本書が「証し」に他ならないことは一目瞭然であるかと思われる。
「証し」とは、「神なる主、イエス・キリストから賜った恵みと憐れみを証言する行為」を意味するが、その中でも、自分がクリスチャンとなるきっかけとなった出来事、すなわち、根元的な救いの体験が、とりわけ重要視されるのである。
それは、個々のクリスチャンが、人生で初めて、イエスさまと出会った奇跡の物語である。すべてのクリスチャンが、この種の奇跡を体験したといっても過言ではない。
ちなみに、2人のクリスチャンが、イエスさまとの出会いに関する「証し」を交換するとしよう。
ひとりは自分の体験を奇跡と信じて疑わないのに対して、もうひとりにとっては、それがまったく凡庸な体験であるように感じる、というような出来事がしばしば起こる。
しかし、それは何ら不思議な現象ではない。本人が信じていれば、それは紛れもない奇跡である。
奇跡はだれにでも起こるのだ。宗教体験とは、そのようなものである。
私が、上記のような(クリスチャンにとっては)不必要とも思える解説をくどくどと述べた理由は、本書が主として一般の読者(ノンクリスチャン)を想定しているからである。
たった4年前、この私は、自殺することしか念頭にない、惨めな無神論者であった。
しかし今は、日々闘いの中にあっても、決して挫けることがないのだ。
主イエスの憐れみによって、私は救われたのである。私は、本書の中で、神の奇跡と栄光を語りたいのだ。
主イエスを知る前の私は、死に瀕していた。救いなどどこにもないと信じて疑わなかった。
そんな私が息を吹き返したのである。
このような驚くべき体験を、自分だけの胸に秘めておくことができるクリスチャンなど、だれひとりいないはずだ。
全世界の人々に、主イエスの御業を喧伝したくなるのは当然である。
多くの人々に、主イエス・キリストが救いの御手を伸べられることを心から願って。
ゴミ屑のような、この私にさえ、その御業を顕された奇跡の神、主イエス・キリストの栄光が、永遠に誉め讃えられますように。
本書の構成
本書は、私が主イエス・キリストといかにして出会い、その「召し」を確信するに至ったかを証しするものである。
この証しは、2015年3月8日の受洗の際に、大阪市のリビング・ジーザス・チャーチ(LJC)において、牧師先生方と信者の方々に聞いていただいたもの、そして、2016年3月に聞いていただいたものを接合し、さらに加筆修正を加えて物語形式にしたものである。
現在(2019年)の視点から、回想をたよりに執筆したので、証し全体の時間的スパンは4年以上にもわたり、著者の近況をも伝える内容となっている。
また、執筆期間も1年半に及んでいるので、繋がり具合の悪い箇所も出てくると思うが、あらかじめご承知おき願いたい。(例えば、「無神論的思考様式」の範疇に属する「数学・物理学的直観」の諸節は、本書の終盤において「有神論」との接合を果たしている。)
この証しは、経時的な形で執筆されている。紙数が多く、内容も多岐にわたっているため、章・節立てとして、適宜‘小見出し’を付した。
なお、本書は忠実な「証し」ではないことを、予めお断りしておく。物語として成立するように、ある程度の脚色を施しているからだ。
私のような「小説家崩れ」は、「事実の羅列はメッセージを伝えない」と信じているから、あえてそのような作業を行ったのだが、妻 幸音はそれを「事実の歪曲」だと言う。-「私は標準語なんか話さへんし。こんなにお上品やないし」などと言うのだ。確かに、本書の登場人物のほとんどは(私も含めて)関西人(大阪人)なのだが、会話文をすべて関西弁で表記するのは、いかにも奇妙ではないか。関西弁の問題以外にも、「登場人物の『キャラクター』が実在の人物に忠実ではない」ことは否めないと思う。しかし、私はあえてそのような「物語」を書いたのだ。神の、そして私のメッセージを確実に伝えるという目的のために。
本書は決して「フィクション」ではないし、「ノンフィクション」と呼ばれるほど軟弱な代物でもない。あえて名づけるなら、それは「聖霊の御知恵」であろう。
私は本書を、「聖霊さまに示されるまま」執筆したと確信しているからだ。
本書の大きな特色として、数学(複素解析学)と物理学(量子力学)に関する考察を挙げることができる。
私のような門外漢による雑駁な議論は、これらの学問に馴染みのない読者にとっては退屈であろうし、その道の専門家からは一笑に付されるかもしれない。
しかし、本書からこの部分を除外することは不可能である。
私は、主イエスが、数式を介して、救いの御手を伸べられたと確信しているからだ。
私がそのように考える理由は、本文を読めばご理解いただけるだろう。
しかし、私の展開する理数系の議論が、教科書的な基盤を遵守しつつも、教科書的な発想をはるかに逸脱・超越するものであることだけは、予めお断りしておきたい。
従って、纏まりと秩序に欠け、前後関係が逆転していたりする場合があるかもしれないが、それはある程度致し方ないことなのだ。
なぜなら、私の議論は、終始‘直観的’であるからだ。私は何よりも‘直観’を重視する人間である。
50歳を過ぎた私が「複素解析学」や「量子力学」にのめり込んだのは、‘形而上学’的な直観を発端としている。‘形而上学’的な視点から数学・物理学を俯瞰的に眺めたとき、次から次へと、予想だにしなかった閃きの数々が迸り出た。
そして、(これは限りなく重要なことだが)、‘直観的’であるがゆえに、私は主イエス・キリストを受け入れることができたのだ。
本書:「証しの物語」は、「物語展開」および「理論展開」から構成されている。前者は通常の文章群であって、読者は何の違和感ももたないだろう。しかし、後者は夥しい量の数式群であるから、読者は大いに面食らうだろう。良識ある著者ならば、必ずや避けて通るに違いない。
既に宣言したように、私には「良識」など無関係であるし、私の救いにあっては、「文章」と「数式」が分かち難く絡み合っているのだ。
従って、本書では、その不可分性を強調するために、「物語展開」と「理論展開」を交互に配置することとした。
数学・物理学を巡る「理論展開」の部分は、救いを賜る以前の私が(無神論者であった頃の私が)「直観的」に到達した結論の「錯綜体」ないし「アマルガム」を、本書の執筆を機に、解きほぐし、整理したものである。それでもなお、纏まりに欠け、読者に知的な負担を強いる内容となってしまった。
また、数式の詳しい解説や証明などは、筆者の浅学ならびに紙幅の関係上、割愛せざるを得なかった。
以上の不手際に関しては、この場を借りて、お詫びする次第である。
しかしながら、本書の執筆に当たって、当時京都大学大学院博士課程(核物理学科)に在籍しておられたYR氏に校閲していただいたので、明らかな誤りはないはずである。YR氏は理学博士号を取得されたのち、現在は東京に勤務されている。
YR氏には、この場を借りて謝意を表したい。
また、YR氏に関しては、本文の中で、改めて証しの機会をもちたいと考えている。
その他にも、本書は「徒に理屈っぽい」という印象を与えるような議論に満ちているのだが、可能ならば、是非とも御一読願いたいと思っている。
斜め読みでも、あるいは、絵文字の連なりとして眺めるだけでもいいのだ。
‘頑迷な無神論者’(=過去の私自身)の人物像が明瞭に見えてくるはずである。
いずれにせよ、本書は様々な意味で‘面白い’内容を豊富に含んでいると思われる。
主イエスの十字架が、この私を限りなく愚かな者へと変えてしまったのである。
「わたしの血潮が、おまえの罪と恥を拭い去ったのだ。いまこそわたしの栄光を語れ。おまえが犯した罪と恥によって。」
-神のしもべとなった私、田中寛郷は、主イエス・キリストの御声に聞き従うのみである。