✝精神分析学/構造主義への傾倒
彼らの影響下、私はフランスの現代思想/哲学にのめり込んでいき、「構造主義」関連の書物を読み漁った。
著者の名前を挙げれば、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、クロード・レヴィ=ストロース、ジャック・ラカン(以上の諸氏は「構造主義四天王」として名高い)などである。
「構造主義」は、「どれほど自明に見える思考形式でさえ、人為的な権力(権威)(=『第3項』)の支配を免れない」という根本理念に貫かれている。
「当たり前」で「自然」な思考や価値観などはひとつも存在しない、すべては権力という外部からの押し付けである、という徹底した懐疑主義なのだ。
それが、キリスト教を否定し続けた西欧文明の哀れな末路であること、そして、まさにそれゆえにこそ、キリスト教の痕跡が随所にみとめられること…
私が、それらの事実に気づくまでには、さらに20年近くの歳月を要することになるのだ。
前記の思想家/哲学者の中でも、私に決定的な影響を与えた人物こそ、ジャック・ラカンであった。
彼は、フロイトの精神分析学を現代的な視点から読み解いた、カリスマ的な精神分析医である。
フロイト/ラカン※によれば、幼い子どもは、「エディプス・コンプレックス」の洗礼を受けない限り大人になれない、あるいは、人間にさえなれないという。
※文献を紹介しておく。『フロイト著作集』:邦訳あり。ラカンに関しては、『エクリ』(著作集)と『セミネールⅠ~ⅩⅩⅤⅡ』(講義録)がある。『エクリ』は邦訳あり。『セミネール』はⅠ~Ⅴ, ⅤⅡ, ⅩⅠのみ邦訳あり。
なお、フロイトに関してもラカンに関しても、無数の2次文献が出版されている。
時宜に適っていると思い、ここではあえて「洗礼」ということばを使った。
しかし、反キリスト者である彼らが、「洗礼」などという用語を使うはずがないのである。
彼らが使うとするなら、それは「通過儀礼」という用語になると思う。
「エディプス・コンプレックス」とは、古代ギリシャのエディプス神話に着想を得たフロイトが考案した概念である。
エディプス神話とは、次のような物語である:
「数奇な運命に翻弄されたエディプスという青年が、そうとは知らずに実の父親を殺害し、そうとは知らずに実の母親と結婚して子をなすのだが、真実を知ったのち、彼は自分の罪深さに耐え切れなくなり、自らの両眼を潰して放浪の旅に出る。」
つまり、それは、近親相姦にまつわる物語なのだ。
上記の基礎知識を踏まえながら、現在の私が信じるところを、いささか大胆に述べたいと思う:
「フロイトの『エディプス・コンプレックス』概念は、エディプス神話に基づいている※が、ラカンのそれはフロイトを継承するように見えて、実はキリスト教神学を巧妙に裏返したものである。」
※あるいは、フロイトの「偽装」かもしれない。フロイト(ユダヤ人)もまた、キリスト教神学に精通していたであろうから。
ここは、私の証しの中核をなす重要な箇所であるから、少しばかり詳しく解説させていただきたい。
まずは、フロイトの「エディプス・コンプレックス」概念を紹介する。
フロイトの文体(あるいは口吻)を真似つつ、極力シンプルな説明を心がけたいと思う。なお、これは「男の子」に限っての仮説である:
「幼い子どもは、母親と一心同体の性愛関係(近親相姦)を結んでいるのだが、そこに父親が介入する。『俺の女に手を出すな。さもなくば、おまえのペニスを切断してしまうぞ』と脅しをかけながら、子供に『掟』(=社会のルール)を教え込もうとするのである。子どもは父親に対して激しい憎しみを燃やし、幻想の中で幾度となく父親を殺害するのだが、やがて子供は自発的に父親を見習い、彼を愛するようになる。この時期の子どもは、あたかも、『掟』という足かせに、自ら進んで繋がれようとするかに見えるのだが、その動機は極めて不純である。彼は、父親の圧倒的な力の源である『掟』を我が物として復讐を果たし、いつの日にか母親を奪い返してやろうという魂胆なのである。
このように、父親は、『社会』ないし『世界』の秩序を司る絶対的な権威者※として機能する。そして、父親に対する子どもの憎悪が愛情へと反転する一連のメカニズムを『エディプス・コンプレックス』と呼ぶ。
※現代思想/哲学の文脈では、このような「社会的な権威(権力)」を『第3項』と呼ぶ。
このような厳しい通過儀礼を経由することによって、子どもはようやく大人になることができる。現実原則(=『掟』)に従う『意識』と、快感原則(=『近親相姦』)に従う『無意識』を併せ持つ社会的存在へと成長するのである。」
ここで、<父>・<子>・<母>の3者が織りなす関係を「エディプスの三角形」と名づけ、そのメカニズムを図示するなら、以下のごとく単純なシェーマを得ることができる。
もう少し専門用語を追加するならば、子どもが父親への憎しみを愛情へと反転させる瞬間を、「去勢」ないし「原抑圧」と呼ぶ。
フロイトの「エディプス・コンプレックス」概念を追求することによって、構造主義の極限へとたどり着いた人物こそ、ジャック・ラカンだったのである。
ラカンの思想は、フロイトのそれを過激なまでに先鋭化・抽象化したものだ。
フロイトの場合にならい、ラカンの文体(口吻)を模倣しつつ、その輪郭をなぞってみたい:
「母子一体化状態(近親相姦)に父が介入して、母子分離が果たされるときには、壮絶な愛憎劇が繰り広げられる。
子は偉大なる父を(心理的に)殺害した自分自身に対して、耐え難い罪悪感を抱き、父の権威に服従して、人間的(社会的)に思考する者となる。
この服従に際して、子は(心理的な)自殺を遂行する。自分自身を殺害して『父の名』(Nom-du-P re)という『掟』に従う者となるのである。この『父の名』とは、‘すでに死んだ父’、あるいは‘名ばかりの父’、を含意している。
つまり、古い自己が抹殺されて『無意識』となり、新しい自己が誕生して『(自我)意識』となる。しかし、この‘(自我)意識’もまた、空虚な墓のようなものである。
なお、『父の名』とは、言語そのものである。」