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イエスキリストとメビウスの帯④

✝精神分析学的キリスト教神学

 

さて、ここに述べたラカン思想の概要に接した読者諸氏は、どのような感想をもたれるだろうか。

 

クリスチャンならば、即座にピンと来るものがあると思うのだが…フロイトの発案による「エディプスの三角形」を思い浮かべれば一層ハッキリするのであるが…

 

結論は次のとおりである:

 

「フロイト/ラカンの精神分析学は、キリスト教の三位一体(父と子と聖霊)と瓜二つである。精神分析学の<父>・<子>・<母>と、キリスト教の<天の御父>・<イエス・キリスト>・<聖霊>との間には、明確な対応関係を認めることが可能である。」

 

無神論者であった頃の私自身が信じていた「精神分析的キリスト教神学」に沿って、補足説明させてほしい:

 

「地上におけるイエスは、肉なる<子>と神なる<聖霊>の複合体である。愛と赦しの御霊に満たされたお方がイエスであるから。

 

精神分析学のシェーマにおいて、この‘複合体’は、三角形の底辺、すなわち「母子一体化状態」に対応する。イエスには、すべてが許されているわけだから。

 

ユダヤ教の律法に反する言動、すなわち、罪人との食事・安息日の無視などをまったく意に介さないばかりか、「人の子は安息日の主である」と断言してはばからない。

 

まるで、わがままな駄々っ子のようだ。

 

しかし、彼はあくまでも、「父なる神」に愛されていると信じて疑わなかったから、掟違反をやめなかった。彼は、「父なる神」の厳格な部分に対して目をふさぎ、愛と赦しの部分だけを見ていたのである。

 

その結果、最終的には、ユダヤ最高議会(Sanhedrin)の怒りをかって、十字架刑に処せられたのである。

 

イエスの言動および一連の出来事に、奇跡の逸話などの尾ひれがついて、「イエスは神の子」という信仰が生まれた。

 

イエスの‘受難と復活’を、自分自身の幼時体験である‘エディプス・コンプレックス’に重ねる人たちが信者となり、原始キリスト教会が成立したのである。

 

すなわち、キリスト教とは、父の権威に屈して心理的自殺を強いられたクリスチャン(=社会的弱者)が生み出した幻想にすぎない。

 

‘主の御名’を‘父の名’に、‘御言葉’を‘言語’に置き換えれば、キリスト教は瞬時にして精神分析学へと変貌する。迷信が科学によって説明可能となるのである。

 

さらに言えば、クリスチャンの根本理念である‘自分自身に死んでイエス・キリストに生きる’でさえ、ラカンの理論である‘古い自己が抹殺されて新しい自己が誕生する’によって、過不足なく説明されるではないか。

 

もはや信仰など不要なのだ。有害ですらある。それは、科学や文明の発展を阻害するのだ。」

 

 

 

おそらくは、一般の人たち(ノンクリスチャン)にとっては、上記のごとき無神論的なキリスト教解釈の方が受け入れやすいのではなかろうか。

 

ちょうど、多くのノンクリスチャンたち(過去の私自身を含めて)が、あの『ダヴィンチコード』という架空の物語を‘真実’として受け入れ、‘イエス・キリストは今も生きておられる’というクリスチャンの信仰を‘迷信’として斥けたように。

 

過去の私は-少なくとも4年前までの私は-、このような反キリスト的な考え方の支配下にあったのだ。

 

しかし、現在の私は-主イエスに救われてからの私は-、その考え方を180度変えられてしまった。

 

神の御計画とは、なんとも測りがたいものである…