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イエスキリストとメビウスの帯⑤

✝言葉による世界の分節

 

ラカンは、精神分析学とキリスト教の共通点を、強く意識していたのであろう。

 

だからこそ、「主の御名」を「父の名」によって、「御言葉」を「言語」によって置き換えたのだ。迷信的ではなく、科学的ないし論理的な方法によって、人間存在の謎を解き明かすことを目的として。

 

いうまでもなく、「‘父の名’とは‘言語’そのものである」というくだりは、「はじめに言葉があった。言葉は神であった。万物は言葉によって成る」というヨハネの福音書の一節に対応している。

 

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 

この方(キリスト)は、初めに神とともにおられた。

 

すべてのものは、この方(キリスト)によって造られた。造られたもので、こ  

 

の方(キリスト)によらずにできたものは一つもない。(ヨハネの福音書 1章:13節) -もちろん、出典は「創世記」である。

 

興味深いことに、反キリスト者ラカンは、自らの著書を、敬虔なクリスチャンである弟に献呈しているのだ。

 

 

 

ラカンは、次のような謎めいたアフォリズム(警句)を残している:

 

「言語とは、‘数を数える能力’である。」

 

わかりやすく説明すれば、要はこういうことだ:

 

3種類の「集合」を思い浮かべてほしい。-「野菜の集合:レタス、ダイコン、ナス・・・」・「動物の集合:ウマ、サル、ヒツジ・・・」・「乗り物の集合:自動車、電車、飛行機・・・」

 

これらの集合を異なるグループとして区別する能力。瞬時に、かつ自明のものとして。

 

-この能力(当たり前すぎて、‘能力’と呼ぶことにさえ違和感をおぼえるような根元的な認知機能)を自明の前提としてこそ、人間的に意味のある思考が可能になるのではなかろうか。あるいは、これをもう少し拡張して、「物の名前を区別する能力があってこそ、人間的な思考が可能になる」と言えるのではなかろうか。

 

つまり、レタスが1個、2個、3個・・・ウマが1頭、2頭、3頭・・・自動車が1台、2台、3台・・・などと、当然のように数え上げることができるのは、上記の集合たちが明確に区別されているからであって、「数を数える能力」なくしては、いかなる有意味な思考も成立しないのである。

 

しかし、この能力は、子どもが「自然」に獲得するものなのだろうか。

 

-残念ながら、その答えは、「否(No)」なのである。

 

なぜなら、集合を区別する能力を、根本的に欠如している一群の人たちが存在するからだ。それは、いわゆる「精神病者」(統合失調症など)と呼ばれる人たちであるが、彼女/彼らの特徴は、正常な知能(IQ)をもちながらも、異様な言語を話すという点にある。

 

患者さんたちの話を聞いて感じることは、「まとまりが悪い」・「話題に一貫性がない」・「支離滅裂だ」などという印象であるが、私の臨床経験に照らして、彼女/彼らが話す「異様な言語」の一例を提示してみたいと思う:

 

-「そこにある野菜を取ってください。あっ、それじゃないんです。そっちの方、つまりサルの顔です。バターでベトベトしたトマトみたいなやつですよ。脂でギトギトの猿豆と、ピーナツバターでぬらぬらしたイチゴトマトが食べたいです。いちごミルクみたいな野菜があるじゃないですか。ほら、そこに!」

 

もちろん、上記のケースは私の創作だが、統合失調症者の言語とは、概ねこのような色彩を帯びているのである。

 

これを翻訳すると以下のようになるだろう:

 

-「野菜にはどんなものがありますか?レタス、ダイコン、ナス...ええっと...それでは、アボカドも野菜ですか?えっ!違うんですか?それでは、トマトは?えっ!野菜なんですか?僕にはまったく理解できません。野菜の定義を教えてください。えっ?畑でとれる?果物ではない?ナッツ類でもない?もちろん魚でも肉でもない?何を言ってるんですか?それじゃあ、ないないづくしじゃないですか!

 

僕の見解によれば、アボカドは‘森のバター’とも呼ばれるから、それは乳製品です。また、豆類は‘畑の肉’とも呼ばれるから、それは動物です。オランウータンは‘森の人’と呼ばれるから、それはアボカドや豆類と同じ仲間です。」

 

あるいはまた、彼らの言語は、ときとして奇妙な言葉遊びのような様相を呈することもある:

 

-「それにしても、このレタスはうまいなあ。うまいレタスをウマが食べるとレターケースがレタスでいっぱいになるよ。白ヤギさんがお手紙食べたら、‘レターズうまい!’って言うだろうね。ああ、レタスはウマいウマいなあ。」

 

 

 

「特定の集合を、それ自体の内部情報によって定義することは不可能である。」

 

-この命題に対しては、ゲーデルの‘不確定性定理’が、数学的に厳密な証明を与えているのだが、要するに、特定の集合を記述しようと思えば、集合の要素を際限なく列挙するか、さもなくば、「~ではない」という否定辞を使う以外に方法がない、ということである。

 

にもかかわらず、私たち「健常者」が上記のような混乱に陥らないのは、状況に応じて「集合の定義」を変更することができるからだ。あるいは、他人や社会が要求する「規則」ないし「ルール」(=「掟」)に従うことができるからなのだ。

 

精神病者には、「規則に従う」という能力が欠落しているのである。

 

 

 

ラカンの思想は、1’なるものの論理学」と呼ばれることもあるが、それは彼が、「‘1’つの全体集合を認知する能力」の原点を「エディプス・コンプレックス」に求めたからである。

 

「人間は、様々な‘名前’という人為的(=恣意的)なラベル、すなわち言語を介してしか、外界を認知できない」と、ラカンは主張するのだ:

 

「これらのラベルないし言語は、人為的(=恣意的)でありながらも、犯し難く絶対的な「社会の掟」として機能している。幼い子どもは、「父の権威」を通して、強制的に、これらのラベルを学習させられるのである。決して「自然」に学ぶのではない。「自然」(=神)が、個物に‘正当な’ラベルを貼るのではなく、「社会」(=父の名)が個物に人為的な(=恣意的な=不当な)ラベルを貼り、社会の成員に対して、それらを一方的に押しつけるのである。

 

個物の名前を自明の前提として区別できない者は、‘狂人’として社会から追放される。」

 

 

 

ラカンが主張するような「言語の恣意性」に関しては、次のような実例(注12)が、しばしば引き合いに出される:

 

「日本人が、‘蝶’と‘蛾’を見て、その違いを認識できるのに対して、フランス人には、その違いが認識できない。なぜなら、フランス語には、‘蝶’に対応する語彙はあっても、‘蛾’に対する語彙がないからである。」

 

上記は、あくまでも「教科書」の記載である。フランス人に確認したところ、彼らはきちんと「蝶papillon」と「蛾papillon de nuit」を区別していた。

 

すなわち、「有神論(聖書)」も「無神論(精神分析学)」も、ともに次の命題「真理」として主張している:

 

命題✫:混沌とした原初の世界が、言葉によって切り分けられ、秩序を与えられることによって、現実の世界が生成された。

 

「聖書」では「地は茫漠として何もなかった」(創世記 1章:2節)と表現され、フロイト/ラカンは「言葉によって秩序を与えられる前の‘もの’Das Ding; la Chose」と表現する。

 

 

 

ここに至って、私たちは、さきほどの御言葉-「はじめに言葉があった。言葉は神であった。万物は言葉によって成る。」-へと引き戻され、ラカンの思想が、キリスト教へのアンチテーゼとして提出されたことを知るのである。

 

この「アンチテーゼ」という表現は、「社会の掟(ルール)」に関する限り、無条件の正当性などどこにもない、という過激な懐疑主義(=反自然・反キリスト主義)を指し示している。

 

命題は、ラカンのみならず、構造主義の哲学者/思想家に共通の認識であるが、「精神分析医」(精神科医)ラカンが命題を主張するとき、この命題は途方もなく広範な射程を獲得することになる。

 

というのも、ラカンはありとあらゆる「精神病者」たちの治療経験をもつ医師であるから、病者たちが語る‘奇妙’な、あるいは‘荒唐無稽’な「知覚」:「幻覚妄想」の数々を知悉しているからである。

 

ラカンが命題を主張するとき、彼は同時に「『実在』などというものはどこを探しても見つからない」と断言しているのだ。-彼は「父の名」という表現によって『実在』の父(権威)を廃棄してしまったから、科学的/物理学的な「正誤」さえも括弧に入れてしまったのである。-目の前の「コップ」さえ、「コップらしきもの」へと降格されてしまう。

 

すなわち、あらゆる「知覚」・「幻覚」が誤りだとも言えるし、正しいとも言えるわけである。-「主観」と「客観」の区別自体が消滅してしまったのだ。

 

このような思考様式は、まさに「霊」的・「オカルト」的・「4次元(高次元)」的な領域との繋がりを有するものであるが、ラカンは「精神分析学」を「科学」的な方法論として提起しているのである。-彼は無神論者であったから、当然と言えば当然ではあるが。

 

いずれにせよ、「人間の意識/無意識が『混沌とした世界:‘もの’』に形態を与える」という観点に立つなら、「霊の世界」を否定する理由がなくなるのである。

 

この議論は、本書の核心をなす問題系と言っても過言ではない。今後もしばしば繰り返されるであろう。

 

 

 

ラカン思想とキリスト教の共通点について、もう少し議論を続けたいと思う。

 

 

 

ラカンの数学への執着は尋常なものではなく、人間の精神構造を数式化することを目論んでいたといっても過言ではないであろう。

 

その中でも重要な寄与は、「‘意識’と‘無意識’の<対>」から成る人間の精神構造を、メビウスの帯という数学的比喩を用いて考察したことである。

 

メビウスの帯とは、細長いテープの両端を、180度ねじってから貼り合わせた4次元図形を指す。

 

ある人の「意識」が、帯上の1点を出発して円周に沿って進行するとき、1回転した時点で、出発点の裏側に到達する。

 

ラカンは、この地点を「無意識」として位置づけるのである。

 

この地点からさらに進行して、帯をもう1回転すれば、出発点へともどって来る。

 

すなわち、その人の「意識」は、「無意識」を経由し、帯を2回転することによって、ようやく、その人自身の「意識」と再会することができるのである。

 

 

 

この数学的比喩の要点はこうだ:

 

「意識」と「無意識」の間には、4次元的な相互交流関係があり、人間の精神は、「‘表’と‘裏’」ないし「‘意識’と‘無意識’」の<対>を介して機能している。          

 

 

 

上記のような考え方は、無神論者ないし反キリスト者であるジャック・ラカンに端を発しているのだが、それは、有神論者の信じる「真理」を裏返したものに他ならない。

 

繰り返しになるが、ここで再確認しておく。

 

 

 

たとえば、「私は彼女が好きだ」という発言をした「私」は、確かに彼女のことが好きなのだろうが、それは単に、私の「意識」が「私は彼女が好きだ」と思い込んでいるだけであって、この発言が「真」であるためには、かならず、私の「無意識」が、「私は彼女が嫌いだ!」と叫んでいなければならないはずである。

 

 

 

裏表のない人間など、この世界には存在しないのだ。「人の子」イエスさま以外には。         

 

 

 

実際、「愛憎表裏一体」という格言が示すとおり、感情レベルの確信などは、いとも簡単に崩れ去ってしまうものだ。

 

別の例として、たとえば、目の前のレタスを見て「これはレタスである」と確信している私は、「意識」の水準でそれを信じているにすぎないのであって-もちろん、常識的には正しいことを発言しているわけだが-それが「真」であるためには、私の「無意識」が、「これはウマである!」と叫んでいなければならないのである。

 

このような考え方をさらに一般化するなら、私の「意識」が「これはAである」と確信するためには、私の「無意識」が「これはA以外のもの(not A)である!」と叫んでいなければならない、ということになる。

 

要するに、私の中に住まう2人の人物が、不可思議な(4次元的な)拮抗関係を結んでいるときにのみ、「私」が「私」として存在することを許されるわけである。

 

そして、このような拮抗関係を、精神分析学は「去勢」ないし「原抑圧」と呼ぶのである。

 

ラカンは、このような拮抗関係を次のような警句(アフォリズム)によって表現している:

 

「‘無意識’とは、他人の言葉である。」

 

すなわち、「私は私だ!」などと、いくら声高に主張してみたところで、単なる幻想にすぎない。なぜなら、「私」の中には「他人」が住んでいるのだから。

 

 

 

上記の議論からわかるように、精神分析学とは、「‘意味’とは何か」という深遠な問いを探求する学問である。

 

それにしても、精神分析学の考え方は、「あなたの隣人を愛せ」・「あなたの敵を愛せ」・「罪人を赦せ」などという聖書の御言葉に、何と似通っていることだろう。

 

というのも、この御言葉に少し補足を加えるだけで、次のような洞察を得ることができるからだ:

 

「あなたの隣人・敵・罪人を愛せ。隣人・敵・罪人とは、あなたの中に住まう他人であるから。」

 

 

 

クリスチャンとされた私は、まったき確信をもって、次のように宣言することができる。-「私はかつて、大罪人であったが、主イエス・キリストの憐れみによって、罪人としての私は、十字架に釘づけられて死んだのだ。私は、主イエスによって罪赦され、義とされたのだ。」

 

しかし、次のこともまた、同じくらい強い確信をもって、明言することができるのだ。-「かつての私は、サタンの支配下にあったが、主イエス・キリストは、サタンの束縛から、この私を解放してくださった。サタンは、私の無意識の中に封印されたのだ。しかし、私の心が主イエスを離れ、主イエスの憐れみが私から取り去られるなら、サタンは封印を破って蘇り、私の意識を食い尽くすだろう。そうなったが最期、私を救うものは、もはや何もなくなり、真っ逆さまに地獄へと転落することになるだろう。」

 

 

 

神は力強い御手の業によって、人間の「意識」と「無意識」を区切られるのだ。「よいもの」を意識化し、「わるいもの」を無意識化することによって。

 

しかし、サタンは絶えず、この区切りを無効にしようと、隙を窺っているのだ。

 

「意識」と「無意識」の区切りがなくなったら、「わるいもの」が跳梁跋扈するようになる。その結末はすでに述べたとおりである。

 

あるいは、精神病者のように、レタスとウマの区切りが取り除かれ、思考が解体してしまうかもしれない。

 

精神科医としての私は、精神病者に対して薬物を用いるが、信仰者としての私は、精神病の根元が霊の世界と繋がっていることを知っている。従って、癒しの奇跡をも経験しているのである。