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イエスキリストとメビウスの帯⑥

✡✡第B節 転落人生(2)-精神科医としての再出発、最初の結婚と離婚-

 

以上、ラカンの精神分析学とキリスト教の共通点について、長々と述べ連ねてきた。

 

実は、私にこのような着想が芽生えたのは、およそ8年前、つまり、前の結婚が破局して、東京から京都に実家にもどり、前妻との離婚が成立した時期に符合している。

 

私は、キリスト教という信仰を徹底的に否定して、ラカン思想という懐疑主義によって置き換えてしまおう、という強い衝動に駆られていたのである。

 

作家になりたいという思いが大きく膨らみ始めたのも、ちょうどこの頃であった。

 

私は、「‘精神分析学’vs‘キリスト教’」という枠組の中で小説を書き始めていた。

 

カトリック系のミッションスクールに通う2人の美少女たちが織りなすラブストーリーである。

 

私の思考にキリスト教の主題が入り込んできた理由に関しては、もう少し先で明らかになるだろう。

 

当時の私は、すべてを否定すること、疑問に付すことに向けて、一切の情熱を傾けていた。「信じる」人たちに対して、激しい憎しみと嫉妬心を抱いていたのである。

 

ちなみに、その小説が完結することはなかった。原稿用紙にして、1000枚以上を書き綴ったにもかかわらず。

 

ここで、時間を、一挙に20年ほど巻き戻したいと思う。

 

30歳の私、つまり、いまだ慶應義塾大学仏文科の学生で、ラカンと出会って間もないころの私へと遡るのだ。

 

構造主義の過激な懐疑論は、閉塞した保守的な世界を打ち破る救世主のように思え、私は瞬く間に、ラカン思想にのめり込んでいったのである。

 

閉塞していたのが世界ではなく、自分自身の方であることに気づくこともないまま。

 

自分が抱える精神の病を独力で治したい、という思いも、重要な動機のひとつだった。

 

当時の私の中には、キリスト教のの字もなかったのだ。

 

ラカンの精神分析学が、純粋な人間学であると信じていた当時の私は、それがキリスト教と繋がっていようなどとは夢にも思わなかったのである。

 

当時親しかった、私より10歳年下の秀才を思い出す:

 

「宗教が出てきた時点で万事休すですよ、田中さん…」-これが彼の口癖であった。

 

私は、「真理」に通じる純粋な学問として、ラカン思想の吸収に余念がなかったのだ。精神分析家は、例外なく次のように主張する:

 

「‘エディプス・コンプレックス’こそが人間の‘真理’である。」

 

確かに、私はいまだかつて、ラカン以上に強靭な思索者を知らない。彼は、現代思想と精神医学における偉大な功労者であって、彼を抜きにした人間科学など、「真理」を語る資格すらないと思う。

 

しかし、クリスチャンとされた今後の私は、ラカンに対して、「神とサタンのはざまを生きた天才」の称号を贈ること以上の敬意は払わないことにしよう。

 

             

 

4年間の学生生活を終えたとき、私は当然のごとく次のように考えた:

 

「精神分析学を熱心に勉強したとはいえ、それだけでは机上の空論にすぎない。是非とも、生身の人間に対して実践してみたい。しかし、俺のような落伍者に対して、一体だれが、そんな場所を提供してくれるのだろう?」

 

流浪の生活に疲れ果て、親元に帰ろうと考えていた私は、つてをたどって、京阪神の医学部をいくつか当たってみたのだが、すべて門前払いであった。

 

そこで、慶応大医学部精神医学教室の門を叩いたのだ。また門前払いだろう、という諦めの境地で…

 

ところが、なんと2つ返事で、私を受け入れてくれたのだ。

 

その窓口となってくれたのが、フランス精神医学の流れをくむTK先生とHH先生だったためかもしれない。

 

嬉しいことは嬉しいが、これで東京を離れられなくなった。どうしたものか…

 

これが偽らざる心境であった。

 

しかし、不安よりも向学心に突き動かされた私は、覚悟を決めて、精神科医としての第一歩を踏み出したのである。

 

研修医として、精神科医療の全般を学びつつも、神経症圏の患者さんたち-ノイローゼ・うつ病・人格障害など-に対しては、精神分析学的なアプローチに則り、濃厚な精神療法を実践した。

 

すると予想通り(教科書通り)、彼女/彼たちは、私に全面依存しながら、激しい感情をぶつけてきたのである。

 

このとき、分析医は、権威を帯びた「父」としての対応を迫られるのだが、それが途方もなく難しいのである。とりわけ、私のように、自分自身が依存的で、いまだ精神の病を抱える者にとっては。

 

半年ほどでギブアップした…

✝精神病理学との親和性

 

意気消沈する私を見たHH先生は、さり気なく翻訳の仕事をすすめてくださった。

 

具体的には、精神医学関連のフランス語文献を邦訳して解説を加え、学会誌に投稿するという内容である。

 

H先生は、精神病理学の研究者だが、思想や哲学には疎い方であった。

 

精神病理学とは、統合失調症などの精神病者-俗に「狂人」と呼ばれる人たち-を研究対象とする学問分野を指すが、精神薬理学とは全く異質な領域である。

 

私の方向性に明らかな変化が生じたのは、ちょうどこの頃であった。

 

すなわち、私は、活発で手間のかかる神経症圏の患者さんたちよりも、比較的手間のかからない精神病圏の患者さんたちを好むようになっていったのだ。

 

神経症圏の患者さんには精神分析が必要となるのに対して、精神病圏の患者さんには薬物療法が主体となる。だから手間がかからない、という理屈である。

 

しかも、精神病者が語る話は、神経症者の話よりも格段に深みがあって面白く、(逆説的な意味で)「真理」に近いように思われたのである。

 

ラカン思想は、精神病に対しても緻密で明晰な理論を展開しているので、次第に私は、精神病者の話は熱心に聞くけれども、神経症者にはあまりかかわらない、治療は薬任せ…という怠惰な精神科医になってしまった。

 

 

 

このあたりから、私の転落人生が加速していくことになる。

 

 

 

というのは、前妻との結婚が、ちょうどこの時期と重なるからだ。

 

彼女は、4歳年下の内科医だった。ひょんなことから知り合い、深く考えもしないまま、すぐに結婚した。第一の理由は、私が依存対象を求めていたから。第二の理由は、「この女性なら親も反対しないだろう」と考えたからだ。

 

彼女は、非常に生活力のある、勝気な女性だった。仕事のできる、有能な女医だったのだ。

 

結婚してすぐに、妊娠が判明した。私が祝福すると、彼女は「産みたくない」というのだ。もっと仕事がしたい、子育てをする自信がない、という理由だった。

 

妊娠と出産は、女性にとって、無条件に喜ばしい出来事であると思い込んでいた当時の私にとって、堕胎などという行為は、許し難い大罪のように思えた。

 

私は、泣いて彼女にすがったのだ。頼むから、僕の子どもを産んでくださいと。一昼夜、押し問答を続けた結果、彼女は、ようやく出産に同意してくれた。不承不承。

 

しかし、その直後、彼女はひどく奇妙な告白を始めたのだ。

 

いま思えば、隠し通すのがよほどつらかったのかもしれないが、当時の私には、その意図がまったく理解できなかった。

 

彼女はこう語ったのだ:

 

「過去にも同じようなことがあった。別の男性との間に。その人とは婚約までしていたのだけれど、妊娠がわかったとき、産む自信がなくて…」

 

この告白は私を打ちのめした。当時の私には、彼女の過去を受け止めるだけの器がなかったのだ。

 

数日間におよぶ放心状態ののち、私は決心した。産まれてくる子どものために、すべてを呑み込もう。全力で子どもを育てようと。

 

夫婦関係は修復されたかに見えた。出産後の彼女は、懸命に仕事と家庭の両立に励み、私も協力を惜しまなかったつもりだ。

 

しかし、私は、彼女に対する愛情をとっくに失っていたのだ。

 

私は息子を溺愛した。叱れない父親だった。私自身が息子に依存していたからだ。

 

彼女は彼女で、息子の教育にのめり込んでいった。ありとあらゆる塾に通わせ、何人もの家庭教師を雇い、息子を机に縛りつけたのだ。

 

 

 

私は、よき夫、よき父親を演じることの苦痛に耐えかねて、アルコール・睡眠薬・抗うつ薬に溺れるようになった。

 

こっそりと悪所通いを続け、不貞を犯しながらも、恬として恥じることがなかった。それは、前妻に対する復讐だったのだ。

 

 

 

結婚後間もなく、私は、慶応の精神科から出向を命じられ、民間の精神病院で勤務することになった。

 

家庭生活の空しさを埋めるかのように、私は、仕事に熱中するようになった。

 

ただし、ここでいう「仕事」とは、「治療」とは似て非なるものである。

 

すでに話したように、それは、精神病者の話をひたすら聞いて記録すること、精神医学・思想・哲学関連の書物や文献を読み漁ること、そして「病跡学」の研究等々を指しているのである。

 

ちなみに、「病跡学」とは、精神を病む芸術家たちの作品を研究するもので、私が病的なまでに偏愛した学問分野である。これに関しては、本書の後半での議論を予定している。

 

家庭生活の破綻から、一切の現実を信じられなくなっていた私は、一切の現実が覆っているかのような精神病者の世界にのめり込んでいった。

 

そして、精神病者の世界を読み解くツールとしてのラカン思想(=過激な懐疑主義)が、ほとんどすべての人間性を、私から奪い去ってしまったのである。

 

 

 

精神病者(とりわけ統合失調症者)が呈する主な症状は、幻覚と妄想だ。幻覚としては幻聴(幻声)が、妄想としては被害妄想が、その典型的な形式である。

 

その成り立ちについては、‘1’なるものの論理学」との関連で述べた「‘集合’概念の破綻」という現象を出発点として、詳細な理論を展開することもできるのだが、それはまたの機会に譲りたいと思う。

 

しかし、私がとりわけ興味を惹かれたのは、身体にまつわる幻覚や妄想であった。

 

それらが、自分自身の病的体験を、極端に増幅したものであるように思えたからだ。

 

それらは、「腸がねじれている、ちぎれている、腐っている」とか「背骨に糸が巻きついている、背骨がゴムみたいにクニャクニャしている」とか「脳の左右が入れ替わった、自分の脳が他人の脳と入れ替わった」などという奇妙奇天烈な体感異常を指しているのだが、このタイプの幻覚妄想もまた、「外的世界は言葉によって切り分けられ、秩序立てられている」と考えるラカン思想を用いて、明確な形で説明することが可能なのである。

 

すなわち、「エディプス・コンプレックス」のメカニズム(=「去勢」ないし「原抑圧」)が正しく機能しなかった場合-表現を換えれば、「古い自己が死んで新しい自己が誕生」しなかった場合-、人間は、思考と身体(=心と体)の両面にわたって、見るも無残な有様で崩壊・解体してしまうのである。

 

 

 

当時の私は、「古い自己」を追い求めていた。

 

人間として新たに誕生するため、死すべき定めにある「古い自己」が生き続けたら一体どうなるのか…

 

その結末を知りたかったのであろう。

 

 

 

私は、盛んにこの種の症例を蒐集し、研究成果を学会で発表していた。

 

すると、ある日突然、高名な精神病理学者から、手紙が送られてきたのだ。

 

-「田中先生の発想は素晴らしい。是非とも一緒に仕事がしたい。」

 

それは、東京医科歯科大学のHS助教授(当時)からの手紙だった。

 

彼は、「異能の天才」として、ラカン主義者たちから畏怖されつつも嫌悪されている人物だった。なぜなら、彼は、ラカン思想(つまり「構造主義」)の打倒を目論む、極左的な考え方の持ち主だったからだ。

 

HS氏によれば、私の発想には、ラカンを乗り越える斬新さがあるというのだ。

 

大いにプライドをくすぐられた愚かな私は、HS氏の論文に目を通してみたのだが、まったくチンプンカンプンなのである。まるで宇宙語なのだ。

 

しかし、私は瞬時に、彼の虜となってしまった。-「これは人間業ではない!」・「ここにこそ、すべての真理がある!」と思い込んでしまったのだ。

 

やがて私は、彼の考え方が、「ポスト構造主義」に由来することを知った。それは、完全に「‘父’なき」-もちろん「‘神’なき」-世界観だ。「構造主義」が、「父」と「神」を排除しようとする思想だとすれば、「ポスト構造主義」とは、「父」と「神」の排除がすでに完了して、「母」しか存在しない-あるいは、「女性」しか存在しない-世界になぞらえることができる。

 

ラカンなど、まだまだ甘かったわけだ。懐疑主義的な過激さにおいては。

 

 

 

「ポスト構造主義」の代表格は、ジル・ドゥルーズ(哲学者)およびフェリックス・ガタリ(精神科医)の両名であって、彼らの思想を突き詰めれば、純粋な「システム論」へと帰着する:

 

「無数の存在者たちが、相互に連関しつつ、形を変えながら、全体として継起していく。」

 

それは、驚くほど仏教思想に似ているのだ。両者とも、「輪廻転生」を主題に置いているという点において。

 

出発点は、ニーチェの「永劫回帰」思想である。

 

「ポスト構造主義」は、「輪廻転生」を論理的に説明しようと躍起になったあげく、気が狂いそうになるくらい難解な議論を展開している。

 

いや、ほとんど気が狂っていなければ-人間性のかけらさえ失った者とならなければ-、彼らの議論についていくことは不可能だろう。かく言う私自身のように。

 

私は、狂ったように、輪廻転生について考え続けた。

 

私にとって、輪廻転生は、決して机上の空論ではなかったのだ。精神病者が、しばしば「輪廻転生妄想」を語るという事実を知っていたから。そして、私自身の「死」に関する問題を直視する上でも、輪廻転生という概念は、避けて通れないように思えたのである。

 

ところで、「万物がシステムとして輪廻転生する」ためには、そこに何らかの力が作用していなければならないはずである。

 

「父」や「神」を排除し、「エディプス・コンプレックス」をも否定する「ポスト構造主義」にあっては、輪廻転生を駆動する「力」を指して、「差異」(diff rence)あるいは「強度」(intensit )などと呼ぶのである。

 

-万物が存在するためには、個々の存在者を区別する-「差異」を形成する-何らかの力がはたらいているはずだ、というほどの意味である。

 

 

 

それにしても、なんと奇しい御業なのだろう。私は、この超過激な懐疑主義を経由したのち、それをはるかに超越した地点で、主イエスの御救いを体験することになるのだから。あの「メビウスの帯」を、数式的に再認識することによって。

 

しかし、この御業が成就するためには、さらに十数年の歳月を要することになる。

 

 

 

ここで一旦、前妻との結婚生活へと話をもどそう。

 

私と前妻、そして息子の異常な関係は、息子が中学生になったとき、決定的な破局を迎えたのだ。

 

中学に入学するや否や、息子は母親に反旗を翻し、暴力をふるうようになった。

 

前妻は一歩も引かず、なおも息子を束縛しようとするものだから、家の中ではガラスや食器が割れ、ありとあらゆる器物が宙を飛び交っていた。

 

毎日が修羅場だった。

 

私は、ただおろおろと二人の間を行き来しながら、仲裁の真似事をすることしかできなかった。

 

そして、息子が中学2年生になり、母子の間でとりわけ激しい諍いがあった日、彼が突然家出してしまった。

 

正確には、近所で暮らす義母(前妻の母)の家に避難した、という形だ。それ以降、彼は、義母の家から学校に通うようになったのだ。

 

私と前妻は、何度も義母の家を訪ね、息子との話し合いを申し出たのだが、義母は頑として聞き入れなかった。扉をロックして、中に入れてもくれないのだ。

 

「あなたたちには親の資格がない。この子は私が育てます。」-その一点張りだった。そして、息子も扉越しに、私たちに対して罵詈雑言を浴びせかけるのだ:

 

「おまえなんか父親じゃない。おまえのような無能な男は見たことがない。死んじまえ!!」

 

 

 

それっきり現在に至るまで、息子とは音信不通だ。

 

 

 

前妻は、次第に精神を病んでいった。怒りの矛先が私へと向かい、怒声を発しながら暴力をふるうのだ。

 

私は次のように考えた。-「彼女は元来、‘境界性人格障害’だったのだろう。ストレスによって、それが顕在化したのだ。」

 

念のため、慶應のHH先生を受診すると、「躁うつ病」の診断であった。しかし、薬を服用しても、症状は一向に改善しなかった。

 

たまりかねた私は、病気の彼女を残して、京都に実家に逃げ帰ったのだ。そこには高齢の母が暮らしていたので。平成20年のことだ。

 

その後もしばらくは、前妻と電話でのやりとりを続けていた。電話だと、比較的穏やかに、会話が成立するのだ。

 

しかし、その後、頻繁に義母から連絡が入るようになった。-「今日も彼女(前妻)が暴れている。なんとかしてほしい。」

 

彼女は、連日のように義母の家に押しかけ、大声で叫んだり、窓ガラスを割ったりするので、頻繁に警察の出動を要請しているというのだ。

 

私は、離婚を決意した。

 

-このままだと、息子に危害がおよぶかもしれない。自分が親権者となって、彼女と息子の間を、法的に引き離してもらおう。

 

裁判には2年を要した。離婚が成立した年、息子が大学生になって一人暮らしを始めた。

 

今はもう、社会人になっているのだろう。前妻も、なんとか仕事を続けているのだろう。何の連絡もないことから推測すれば。