✡✡✡第C節 転落人生(3)-ソドムとゴモラ、滅びへの道-
つい4年前までの私は(妻幸音と出会って教会へと導かれる前までの私は)、泥沼のような罪の意識に打ちひしがれていた。
元はといえば、すべてが自分の身から出たサビなのだ。私のような罪人が、他人の罪を裁いたがゆえに、このような悲劇が起こったのだ…
私は自分自身を責め続けた。責め続けながらも、救いを求めようとはしなかった。
懐疑主義に染め上げられた私は、人間世界における一切の営みを、虚偽にすぎないものとみなしており、人間が人間を救うことなど、絶対に不可能であると確信していたからだ。
誤解のないように確認しておくと、「人間が人間を救う」という行為は、当時の私にとって、「宗教」(=‘神’による救い)をも含んだ概念であった。無神論者にとっての宗教とは、人間が捏造した神話にすぎないわけだから、それが当然の帰結なのだ。
繰り返しになるが、「構造主義」や「ポスト構造主義」などの現代思想は、温かい人間的な感情を極限まで否定し、人間の幸福を徹底的に拒絶するような思考様式なのである。
しかし、私は、「イエス・キリストによって人間は救われる」と妄信しているクリスチャンたちがいて、彼女/彼たちは、その信仰によって幸福を得ている、という動かしがたい事実をも知っていたのだ。私は、中学・高校時代を、ミッションスクールですごしたわけだから。
「人間が人間を救う」ことの不可能性を確信したとき、私の心を鋭く刺し通し、「泥沼のような罪の意識」を増幅させ、その傷口に塩をすり込むように思われたもの…
それが、キリスト教と信仰の問題であった。
「理性」(=思想/哲学)が私のような‘優れた’人間を不幸にし、「妄想」(=信仰)がクリスチャンのごとき‘愚かな’人間を幸福にするという事実を突きつけられて、耐え難い焦燥に駆られたのだ。
私は、「神」とは真逆の方向へと驀進を開始した。
「神」などという馬鹿げた妄想を打ち砕いてやろう。「神」から最も遠い場所へと到達し、究極の大罪人となって、究極的に惨めな最期を遂げてやろう。
そんな衝動に駆られて、小説を書き始めたのだ。徹底的に「神」を否定するような小説を。
読者諸氏は、サド侯爵という人物を知っているだろう。
ありとあらゆる性倒錯(=異常性愛)を書き綴った、18世紀のフランス人作家だが、およそ30年くらい前の日本では、いまだ猥褻文書とみなされ、翻訳者が有罪判決を受けたこともある。
確かに、彼の作品群は、「猥褻」には違いないのだが、徹底した反キリスト主義に貫かれており、サドは自身の小説を、「無神論的哲学小説」と呼んでいるのである。
ちなみに、ラカンは、精神分析学的な立場から、サド侯爵に関する論考を遺している。
私が、次のように述べたことを記憶されているだろうか。-「京都にもどってから、<‘精神分析学’vs‘キリスト教’>という枠組の中で小説を書いた。2人の美少女が織りなすラブストーリーだったが、未完に終わった。」
実はこの小説、淫らな性描写に満ち満ちているのだ。とくにサド侯爵を意識して書いたわけではないのだが。
ここまでは、口を慎んできたが、フロイト/ラカンの精神分析学と性愛学(セクソロジー)は、切っても切れない関係にあるのだ。
つまり、精神分析学が含み込んでいる性的なファクターの数々を余すところなくさらけ出したら、結果的に猥褻な小説になってしまった。サド侯爵のそれみたいな…ということなのである。
それでは、なぜ完結しなかったのか。
それは、私が、「ポスト構造主義」を持ち込んだものだから、<‘精神分析学’vs‘キリスト教’>という対立構造を維持できなくなり、作品自体が自然崩壊してしまったからだ。
つまり、<‘父’・‘子’・‘母’>から構成される3項関係と、<‘父’・‘子’・‘聖霊’>から構成される3項関係の対比が不可能になった。「構造主義」の概念装置である「3項関係」自体に意味を見出せなくなってしまったのである。
説明を加えよう:
世界がいかにして成立するか、という問題に関して、「構造主義」にあっては、「‘何か’(第1項)と‘何か’(第2項)が‘権力に強いられた不当な’(第3項)関係を結び、別のものになる」と考えるのに対して、「ポスト構造主義」にあっては、「‘何か’(第1項)と‘何か’(第2項)が‘何らかの’関係を結び、別のものになる」と考える。
「構造主義」が3項関係論であるのに対して、その‘進化形’である「ポスト構造主義」は2項関係論なのである。
✝進化論
前の文章において、私は、意図的に「進化」という言葉を用いた。ダーウィンの「進化論」を念頭に置いてのことだ。
「進化論」は、<(無機物)→(有機物)→DNA(=生命)→→→魚類→両生類→爬虫類→鳥類→哺乳類→→猿→人間>という図式を暗黙の前提としているが、この仮説における最大の難点は、この「進化」には「目的」がないということだ。
19世紀に、ダーウィンがこの仮説を発表したとき、有神論者(クリスチャン)たちから、激しい非難の声が湧き起こった。聖書が語る「創造の御業」は、「神の御計画」という「目的」に適っているから、クリスチャンの反論は、至極正当なものであった。
もっとも、ダーウィンは神の創造を否定していたわけではなく、進化の出発点において、神はすでに、いくつかの「生物種」を与えられていた、という立場であった。
すなわち、彼は、神が生命に与えられた「自由意思」の部分を最大限に拡張して、「サルが人間に進化した」という暴論を提起したのである。
クリスチャンにとって、決して受け入れることができないのは、どうやら「サル→人間」という部分らしい。
私がこんなことを言うのは、信仰の師である妻幸音が、常々次のように話しているからだ:
「神さまは、人間を含むすべての生物に対して御計画をもっておられるけれど、それらの‘自由意思’をも尊重しておられる。だから、生物が‘環境適応’によって姿を変えていく、という考え方は理解できる。だけど、トカゲが鳥になったり、鳥がイヌになったり、サルが人間になったり…というのは、明らかに飛躍しすぎだと思う。とりわけ、サルが人間になるなんてことは絶対にあり得ない!人間は神さまの似姿なのだから。」
私はもちろん、「創世記」の記述を100%信じているが、無神論を経由した下僕の考え方は、少々理屈っぽいのである。
-ペテロの手紙にもあるように、‘人間の一日は主の千日’ないし‘人間の千年は主の一日’であるから、‘6日間’にわたる創造の御業が、実は数十億年であったとしも、何ら驚くには当たらない。また、‘神の御計画’を100%、‘生物の自由意思’を0%に設定しても、進化論を論駁することは容易である。
-太古の昔に、10000個の単細胞生物がいたとしよう。そのうちの100個は、神さまによって、あらかじめ‘選び分けられた’細胞だったから、100匹の魚類になる定めであった。100匹の魚類のうち、10匹はサルになるべく選び分けられ、そして、10匹のサルのうち、1匹は人間になるべく選び分けられたのである。
-もっとも、上記のような考え方は、‘百歩譲って進化論を容認するならば’という条件がつくことに注意されたい。
「進化論」は、「偶然と必然」の問題と密接な関連があり、精神病者の世界とも繋がっている。このことに関しては、本書の中で、別の角度から議論したいと思っている。
現代社会において、進化論を批判することは、非常な勇気を要する行為ではないだろうか。
なぜなら、ほとんどの現代人にとって、進化論は、もはや「仮説」ではなく、「科学的真理」として機能しているからだ。
「進化論」イコール「システム論」だ。「システム論」とは、「万物が、何の目的もなく、ただ果てしなく変貌を続けること」、つまり「輪廻転生」の同義語だ。
現代人にとって、最後の形而上学が「ポスト構造主義」という2項関係論であって、それは、「システム論」という薄っぺらな思考様式に取って代わられたのだ。
万物が果てしなく移り行く様に、何らかの目的を見出そうとする人など、もはやどこにもいないということだ。
現代人の考え方を煎じ詰めれば、ただ単純に、「‘何か’と‘何か’が‘何らか’の関係を結び、別の‘何か’になる」のであって、「どのような関係を結ぶべきか」を指示する「第3項」が、まったく欠如しているのだ。
「2人の美少女が織りなすラブストーリー」の破綻によって、書くこと(=生きること)の意味を失ってしまった私が、再びその意味を見出すまでには、さらに1年余りを要することになる。
そのきっかけは、あの「メビウスの帯」(を数式化したもの)との再会、そして、現代アニメ(いわゆるオタク系アニメ)との出会いだったのだが、これに関しては、また後で話したいと思う。
その間、私は何をしていたのか…ひとことで言えば、ただひたすら、酒色に溺れていたのだ。死にたくても死ねず、自暴自棄になって。
もっとも、医者としての仕事は続けていた。息子の親権者である以上、彼が大学を卒業するまでの養育費だけは支払うつもりで。
私の内面は、泥沼のような罪悪感・空虚感・孤独感・絶望感によって、崩壊寸前であった。
だれかに縋らなければ、一瞬たりとも持ちこたえられないような状態だったのである。
そんな男が考えることは、概ね同じなのではないだろうか。
すなわち、女性を求めることになるわけだが、私のように強い依存癖をもつ男にかかわった女性は、必ずひどい目に遭うのである。
この時点までに、私は、少なくとも2人の女性を不幸にしていたわけだから。
ところが、私は、また凝りもせず、病棟の看護師さんに縋りついたのだ。人間による救いなど、絶対に不可能なことを知りながらも。
彼女は、20歳年下のシングルマザーだった。仕事のできる、立派な女性であり、母親であった。
彼女は子どもの父親を求めていたのだろうが、私は、まったく逆の行動をとっていたのだ:
慰めてほしい・癒してほしい・救ってほしい…まるで子供みたいに、彼女に甘えてしまった。酒に酔い、彼女の膝で泣きじゃくったことさえあるのだ。
彼女は黙って、私から去って行った。
次に私が縋りついたのは、風俗の若い女性たちだった。
社会の外部に住まう彼女たちだからこそ、私を救ってくれるのではなかろうか。-そんな直観がはたらいたのだ。
つまり、こういうことだ:
私は罪人であり、彼女たちも罪人だ。だから、互いに受け入れることができるのではなかろうか…
何人かの女性と、プライベートな付き合いをした。結婚を意識した相手もいた。彼女が、「罪の意識」に苦しんでいたなら、あるいは本当に結婚していたかもしれない。
しかし、そうではなかった。幸か不幸か。