✞第Ⅱ章 無神論者に伸べられた救いの御手❶
✡第A節 数学・物理学的直観-複素解析学と集合論-
それでも諦めきれない私の心は、日々、次のような自問自答を繰り返していたのである:
「どこかにいないものだろうか?こんなろくでもない男を救うことのできる、途方もなく深い知恵を備えた女性が。しかし、それは一体どんな知恵なのだろう?想像すらできない。やはり、そんな女性などいるはずがないのだ。現実世界には…」
いっそ、頸動脈でも切ってしまおうか。
絶え間ない自殺願望にさいなまれていた私に対して、ある日、ひとつの閃きが与えられた。今ふり返ってみると、これこそが、主イエスの御手が伸べられた瞬間であったように思う。
説明しよう:
「ポスト構造主義」および「システム論」の帰結は単純なものだ。-「万物は‘差異’(diff rence)を創り出す‘力’(puissance)によって、姿を変え続ける。しかし、この根元的な‘力’の正体については、まったく不明である。」
要するに、仏教思想と同じく、「すべては‘空’である」と言いたいのだ。
しかし、私は、どうしても諦められなかった。人格神を信じない私でも、「唯一の真理」という概念だけは、捨てきれずにいたから。
私が元来、理数系の人間だったからだろうか…
理数系の人たちは、数式をとおして、「唯一の真理」なるものを感じ取っているように思う。たとえそれが、漠然とした直観であったとしても。
従って、傲慢・不遜な私は、次のように考えたのである:
「文系の人間が到達する結論など、所詮こんなものだろう。‘ポスト構造主義’が放置した謎を埋める学問はないのだろうか。理数系の分野で。」
そんな漠然とした思いを抱きながら、ある日、私は数学書を立ち読みしていた。
それは、「複素解析学」の入門書だったが、今ふり返ってみても、なぜそんな本を手に取る気になったのか、まったく見当がつかないのである。
「複素解析学」ないし「複素関数論」とは、「複素数」(俗にいう「虚数」)と呼ばれる数に関する学問分野である。
複素数を構成する虚数単位
とは、x2=-1という2次方程式の解として、16世紀に導入された数概念であるが、‘i’が現実世界の何に役立つのか、という実用的な問題に対しては、長い間、だれも正しい答えを与えることができなかった。
複素数は、物の個数を数えたり、長さや大きさや重さを測ったり、お金の計算をしたり、順番や序列を決めたり…といった日常的な営みとはまったく無縁な数であって、少なくとも19世紀までは、当時万能視されていたニュートン力学が実数のみの学問体系であったことの影響もあって、複素数排斥の風潮が支配的だったようである。
「虚数」(imaginary number:想像上の、実在しない数)という命名自体が、このあたりの事情を如実に反映しているのではなかろうか。
世界を正しく記述する手段として、複素数が絶対不可欠であることが示されるためには、20世紀初頭に基礎が据えられた「量子力学」の出現を待たなければならなかったのである。
「量子力学」という学問体系によって、世界の根元的な構成要素であるにもかかわらず、根元的に観測不能であるという不可思議な性質をもつ素粒子たちの挙動が、複素数によって記述されることが確認されたのである。
証しを続ける前に、少しばかりの予備知識を紹介しておこう。
図(3)が示すように、任意の複素数zは、直交する実軸と虚軸から構成される複素平面上にプロットされ、z=a+bi と表記することができる。ここに、a,bは実数、
虚数単位。
aをzの「実部(Re)」、bをzの「虚部(Im)」と呼ぶ。a=0の場合、zは「純虚数」と呼ばれる。
また、複素数を、ベクトルz=(a,b)と考えることも可能である。
図(4)が示すように、「複素数」は「実数」の上位概念である。
図(5)のように、2次元の「極座標」を用いると、複素数zは、次のように表記することもできる。
「オイラーの公式」から即座にわかることは、複素数とは波動そのものであるという事実である。