✝複素数とは何か(2)
抽象的な「集合論」を補足する目的で、現実世界に存在する「もの」(=物体)と「意味」(=観念)の関係を、別の角度から再検討したい。
ラカンの警句を巡る前節の結論を思い出そう。-「‘複素数’とは‘意味’ないし‘記号’である。」
次に、あなたのデスクの上にある、一冊の本に目を留めてほしい。分厚めの本がよいだろう。
ここで、あなたに訊ねよう。-この直方体(目の前にある「本」を指す)は、一体何だろう?
単なる「本」か?文字や数式で充満した知識の源泉か?
私だったら、その直方体で、あなたの頭を殴りつけるかもしれない。つまり、私にとって、その直方体は、「武器」へと変貌したことになる。
その「直方体」は、「足台」・「定規」・「枕」・「ウチワ(送風機)」…などなど、ありとあらゆる「意味」を纏うことができるのである。
これは「当たり前」のことだろうか。私には、摩訶不思議な現象のように思われるのだが…
私は、その「直方体」を、何らかのもの「X」として見ることができる。物理的に‘同一’であるはずの物体が、複数の意味をもつ個物たちへと変貌してしまうわけだから。
もちろん、私は、ウィトゲンシュタインが考察の対象として掲げた、「ウサギ-アヒル」の反転図形を念頭に置いて話しているのである。
私が思うに、ウィトゲンシュタインにとっては、「ウサギとして」見た図形と、「アヒルとして」見た図形が‘同じ’ものであるということが、限りなく不思議な現象のように感じられたのではなかろうか。
私は、「‘複素数’とは‘意味’ないし‘記号’である」という洞察を他人に語るとき、次のような数学モデルを提示することにしている。(図31)
つまり、物理的な「直方体」は、3次元空間内に3元ベクトルx=(x,y,z)
=(x1,x2,x3)として位置づけられるのだが、それが「意味」(=位相iθ※)を身に纏うと、次元がひとつ上がるから、「有意味な個物X」は4次元空間内に、4元ベクトルx=(x,y,z,w)=(x1,x2,x3,x4)として位置づけなければならないということになる。(xの右肩に乗っている1~4は、冪ではなく添字である。)
※「位相iθ」とは の右肩の部分である。
ここで、第4の次元(=「意味」の次元)が、‘常識的’には知覚不能(見えない・触れない)であることに注意してもらいたい。
なお、上記の4元ベクトルは、相対性理論で使用される4元ベクトルx=(x0,x1, x2,x3)とは異なる概念である。
「複素数」に関する‘第4の次元’とは、いわゆる「‘高次元’空間(n )」に対応するものである。
図(31)に対して、もう少し詳しい数学的解説を加えておこう:
3次元空間内に位置する任意の点を3元ベクトルxで表わし、中身の詰まった「直方体」に対応する関数をf(x) で表すとき、それらの組み合わせ(x,f(x))を視覚化するためには、3つの次元(x,y,z)があれば十分である。
これに対して、複素空間、すなわち、「意味」を纏った空間内に位置する任意の点をzで表わし、「意味」を纏いつつも中身の詰まった「直方体」に対応する複素関数をf(z) で表わすとき、それらの組み合わせ(z,f(z))を視覚化するためには、4つの次元が必要になるのである※。
※正確に言えば、f(z) は6次元関数である。複素数はRe とIm の2次元をもつから(2 。しかし、読者の理解を助けるため、下線部のように、「4つの次元」という‘比喩的’な表現を継続して用いることとする。
すなわち、3次元空間内では視覚化(=知覚化)できないわけだが、このことは、複素関数f(z)が、次のような操作を表わしていることから理解できる:
f(z)
[z=x+yi]→→→→[z=u+iv] (x,y,u,v:実数)
無意味な「もの(物体・物質)」に位相iθが加わることによって、「有意味な個物」が産み出されるという洞察は、「宇宙が存在するための条件」に関するサハロフの提言と、直接の関連性がある:
「宇宙が存在するためには、CP対称性が破れていなければならない。」
言葉を換えれば、「宇宙(内部の個物たち)が存在するためには、宇宙自体が‘意味’をもたなければならない」あるいは「宇宙自体が‘裏と表’ないし‘内部と外部’ないし‘意識と無意識’をもたなければならない」ということになる。
あるいは、次のように表現することも可能である:
-人間の自由意思が「もの(物体)」に第4の次元:「位相iθ」を与え、「意味」が産まれた。
-「意味」の誕生によって、「もの(物体)」の物理学的属性が多様化した。
ここで使った「物理学的属性」という用語に関して、説明を加えておく:
平たく言えば、「物理学的属性」イコール「もの(物体)がもつ物理的性質」イコール「その物体がいかなる物理法則に従うか」ということになるのだが、おそらく多くの読者は、このような表現に困惑するのではなかろうか。
それは、「特定の物体が特定(単一)の物理法則に従う、あるいは、その物体が特定(単一)の物理的属性をもつのは当然のことである」と‘理科’の授業で習ったからだ。
例えば、一匹の猿が、一冊の重い本を人の頭に投げつける。その人の頭蓋骨を砕くためだ。力一杯投げつけた重い本が、突風にあおられて、ひらひらと頭上に舞い上がる…などという現象は、この猿にとっては想像だにできないことである。
なぜなら、猿にとって、その「本」は単なる「直方体」なのであって、「直方体」の‘ページ’がめくれて風にあおられることなど想像すらできないからだ。
すなわち、私が「物理的属性の多様化」という表現を使うとき、「意味」ないし「位相iθ」の次元を念頭に置いているのだ。人間が「もの(物体)」を多種多様な「道具」として用いる場合を想定しているのである。
本節で議論の対象となっている「位相iθ」とは、太古の昔から「存在論」として「形而上学者」たちの頭を悩まし続けてきたものに他ならない。
-「‘存在’とは‘意味’なのか‘実在’なのか」という問いは、「観念論」vs「唯物論」、「唯名論」vs「実在論」、「シニフィアン」vs「シニフィエ」などの対立概念を生み出してきたが、つまるところ、それは「もの(物体)」に付加された「位相iθ」を巡る問題なのである。
‘「どうしても取り除けない位相iθ」という「目の上のたんこぶ」’の周りを堂々巡りしているのだ。
カントは、‘「個物」=「物自体」+「現象」’と結論して平気な顔をしていたものだが…
この深遠な主題に関しては、「量子力学」的な観点からの考察を通して、詳細な議論を重ねていくことになるであろう。
本節の最後に、有用な式を提示しておこう:
「もの(物体)」を実数r で表わし、「意味」を位相成分 で表わせば、
と表記できる。これは「複素数」の定義そのものであるが、「量子力学」の基本式でもある。